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熟年離婚した私の体験をつづっています。 そしてその後のいろんなことも....






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日本人と宗教
 私の育った時代は、戦後の混乱から復興・経済成長していった時代であり、和洋折衷の古い日本と新しいアメリカからの民主主義の教育とが、調和していった時代でもあった。それは、戦後の平和な時代を反映して、少子化どころかベビーブームと高度成長に象徴された時代でもあった。

 お正月には神社へ初詣に行き、お盆やお彼岸にはお寺へお墓参りに行き、クリスマスにはクリスマスツリーを飾り、クリスマスケーキを買い、結婚式は神前や仏前であげる者もいれば教会で挙げる者もいる。そのように個人の意思や信教の自由が認められる時代になったともいえる。

 日本がかつて神道や仏教を掲げて戦争をした時は、死後神になるとか死後の世界に極楽があるとして、死の恐怖をまぎらわせるために宗教が利用され、寺社もまた、協力せざるを得なかった。

 国民を幸せにするためならいざ知らず、国民を殺すためには、神風も吹かないし、神様も仏様も喜びはしないということが教えとして残ったはずだ。宗教は心穏やかに生きるためにあるので、死ぬためにあるのではないのだ。

 日本の国の中に、あらゆる宗教が混在していて、私達、いや私はそれを自然に何の疑問も感じずに、受け入れていた。それを認めていた。だから、「他の宗教を信じると地獄に落ちる」というように、他の宗教を認めないような宗教に出会うと、「恐ろしい」と思ってしまう。こういう宗教が国を支配するとどうなるのだろうか。

 英会話を習っていた時、アメリカから来た青年が、「今、アメリカでも若者のキリスト教離れが著しく、親の世代は洗礼を受け日曜日は教会へ通っていたが、私達の世代は、生まれたときは入っていても、年頃になると、ほとんどが脱会している。ただ、政治家になろうと思ったら宗教との結びつきが必要だ。」と言っていたのを聞いて、驚いた。なぜなら、それまでアメリカ人というのは、誰もがキリスト教徒だと信じていたからだ。

 また、「ダビンチコード」を読み、キリスト教のルーツや、キリスト教といっても宗派によってさまざまだし、宗派同士の争いもあることがわかった。そしてそれが、権力に利用されていることも。

 日本では、戦後、憲法でも政教分離が定められ、宗教が権力を持ち、政治を動かすことを禁じてきた。その結果、多種多様の宗教が弾圧されることもなく存在し、我々自身も寛容になり、宗教団体の起こす事件があってはじめてその存在を知るところとなる。

 戦争中のように、神社に向かって敬礼しなかったとの密告で捕らえられたり、住民に住民を監視させることが起きたようなことが、今後起こらないとも限らない。神社がそのような役割を果たすことはもうないにしても(靖国問題も靖国論議がされているうちはその心配はないと思えるのだが)、他の宗教を認めないような宗教が権力を持ち、地域住民の情報を握るようになると、再びあのようなことな悲劇に宗教が加担することとなる。地域住民の情報を集め、住民がどのようであるかというデーター収集が行なわれたりすることも起きるかもしれない。

 国連が反対するイラク戦争に戦後はじめて日本は賛成した。その頃、どこででも個人の意見を自由に言うことが難しく息苦しさを感じた。戦争についての意見を言うとかでなく、日常の問題についても反対の意見は言うことは許さないというような。戦争に突入する時は、このように空気が変わっていくのだとも思えた。

 私の幼い頃、「人は見かけで判断するな」と教えられた。その人の考えは、意見を聞かなければわからないし、服装やわずかな言葉だけできめられるものではない。そのような判断が差別につながらないとも限らない。親子でも夫婦でも友達でも会話のなくて相手に歩み寄れない、一緒に築きあげられないことほど悲しいことはない。戦争に日本が近づき始めると、自由で楽しむファッションまでも、宗教や政治がらみになるかもしれない。国民がみな一斉に同じ格好をし、同じものを食べ、同じことをするように自然とコントロールされていくとしたら、それは恐ろしいことだ。

 「他の人と違っていい。」と思える世の中ほど平和な世の中だと思う。違う意見でも堂々と言い合って認め合えることが。私はいつもお墓参りをしたり、神社で手を合わせたりするたび、日本は平和で、その平和な日本にいられるのは過去の犠牲があってのことだと思ってしまうのだ。

 北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射しても、それをテレビでお茶を飲みながら、人ごとのようにのんびり見ている私達だからこそ、日本は周辺アジアのどこの国々とも友好関係を維持しなければ存在し得ないと思うのだ。世界中の国々の人々と宗教を超えて、結びつかない限り平和は訪れないはずだ。
 





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